医師と患者、心通わせる医療:マイケル・バラッド、共感が拓いた関係性の創造
「創造する共感者たち」にご訪問いただき、ありがとうございます。
現代医療において、高度な技術や専門知識が不可欠であることは言うまでもありません。しかし、それだけでは十分に満たされないものがあります。それは、病を抱える人の「心」に寄り添うこと、そして医師自身の内面にも目を向けることです。今回ご紹介するマイケル・バラッドは、医師と患者の間に生まれる関係性の中にこそ、医療の本質と創造性を見出した人物です。
マイケル・バラッド:精神分析医が見出した医療の「盲点」
マイケル・バラッド(Michael Balint, 1896-1970)は、ハンガリー生まれの精神分析医でした。イギリスに渡り、ロンドンで活動する中で、彼はある重要なことに気づきました。それは、多くの医師が患者の身体的な病気には注意を払う一方で、患者が抱える不安、恐れ、そして言葉にできない感情的な苦痛に対して、どのように向き合えば良いのかという問いに直面している、ということでした。
また、医師自身も、患者から向けられる様々な感情や、治療の困難さから生じるストレス、そして自身の内なる感情にどのように対処すれば良いのか、という課題を抱えていることを洞察しました。これらの「人間的な側面」は、医学教育ではほとんど教えられることがありませんでした。
バラッドは、患者の病状だけでなく、患者の人生、感情、そして医師との相互作用全体が、診断や治療の結果に大きな影響を与えると考えました。これは、病気という客観的な対象に焦点を当てる従来の医学的視点とは一線を画すものであり、患者の主観的な経験への深い共感に基づいています。
「医師という薬剤」:共感が織りなす治療関係
バラッドは、「医師は患者にとって最も頻繁に使用される薬剤である」という有名な言葉を残しました。これは、医師の態度、言葉、振る舞いそのものが、薬のように患者に良くも悪くも作用するという考え方です。そして、この「薬剤」の効果を最大限に引き出すためには、医師が患者に深く共感し、患者との関係性を意識的に構築することが不可欠であると説きました。
では、どのようにして医師は患者に共感し、関係性をより良くできるのでしょうか? バラッドは、画期的な方法を考案しました。それが、後に彼の名前を冠して「バリンとグループ(Balint Group)」と呼ばれるようになる、医師たちのための少人数グループワークです。
このグループでは、医師たちが自身の診察経験を持ち寄り、特定の患者との関わりの中で感じた困難さ、疑問、感情などを率直に語り合います。他の医師たちは、話を聞き、質問を投げかけ、自身の経験や感じたことを共有します。ここでの目的は、特定の症例に対する医学的な診断や治療法を議論することではなく、医師が患者との関係性において何を感じ、どのように反応したのか、そして患者はどのように感じ、反応しているように見えたのか、といった「医師と患者の相互作用」そのものを探求することにありました。
このプロセスは、医師自身の内省を深め、自身の感情(患者から引き起こされる感情や、患者に対する無意識的な反応など、精神分析でいう「逆転移」に相当するもの)を認識する助けとなります。そして、他の医師の経験に耳を傾け、共感することで、自身の視点を広げ、患者への理解を深めることができるのです。
困難を乗り越え、広がる共感の波
バラッドのアプローチは、当初、医学界で容易に受け入れられたわけではありませんでした。感情や人間関係といった、数値化できない、客観的ではない要素を医学の場で扱うことへの抵抗感や、医師が自身の弱さや感情をさらけ出すことへのためらいがありました。また、精神分析という、当時の医学界にとってはなじみの薄い理論に基づいていたことも、普及のハードルとなりました。
しかし、バラッドは粘り強く活動を続けました。彼は、医師たちがこのグループワークを通じて、患者の言葉にならない苦痛や、自身の診療スタイルが患者に与える影響に気づき、より効果的に患者と関われるようになるという確かな手応えを感じていました。医師たちはグループの中で安心して語り合うことで、孤立感を軽減し、バーンアウトを防ぐ助けにもなることを発見しました。
バラッドの活動と彼の著作は、徐々に世界中の医師たちの注目を集め、バリンとグループはイギリス国内だけでなく、ヨーロッパ、北米、そして世界各地へと広がっていきました。彼の考え方は、医学教育におけるコミュニケーション能力の育成、患者中心医療、そして医療倫理といった分野に大きな影響を与え、共感の重要性を医療現場に根付かせる一助となったのです。
読者への示唆:関係性の中に見出す創造性
マイケル・バラッドの物語は、私たちのキャリアや日々の生活において、共感がいかに創造的な力を持つかを示唆しています。
- 「相手という薬剤」を理解する: バラッドが医師を「薬剤」と捉えたように、私たち一人ひとりも、周囲の人々(同僚、顧客、利用者、友人、家族)に対して、良くも悪くも影響を与えています。自分の存在や言動が相手にどう影響するかを意識し、相手の反応や感情を理解しようと努めることが、より良い関係性を築き、共に創造的な成果を生み出す第一歩となります。
- 自身の内なる声に耳を澄ませる: バリンとグループが医師自身の感情を探求したように、私たちも自身の内面、特に他者との関わりで生じる感情や反応に気づくことが重要です。なぜそのように感じるのか、そこに隠された自身の偏見や期待はないかを探求することで、他者への理解が深まり、より建設的なコミュニケーションが可能になります。
- 対話と共感の場を創造する: バリンとグループのように、率直な対話を通じて互いの経験や感情に共感できる場を設けることは、チームワークを高め、困難な課題を乗り越えるための創造的な解決策を生み出す土壌となります。自身のコミュニティや職場に、安心してお互いの経験を共有できる機会を意図的に作り出すことを考えてみてはいかがでしょうか。
マイケル・バラッドは、医学という科学の領域に、人間関係と感情という人間的な側面を持ち込み、医療のあり方そのものに深く影響を与えました。彼の創造は、高度な技術だけでなく、共感という「人間的な薬剤」が、いかに大きな癒しと変革の力を持つかを示しています。
まとめ
マイケル・バラッドは、医師と患者の関係性における共感の重要性を深く洞察し、医師たちが自身の感情や患者の主観的な経験に向き合うための実践的な方法として「バリンとグループ」を創造しました。このアプローチは、医学の人間的な側面を再認識させ、患者中心医療の発展に貢献しました。
彼の遺したものは、医療現場に限らず、あらゆる対人支援職や、他者と協働して何かを創造するすべての人々にとって、共感力と内省がいかに重要であるかを示唆しています。他者の声なき苦痛や不安に耳を澄ませ、自身の内なる声も理解しようと努めること。そこに、より良い未来を創造するための鍵があるのかもしれません。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。